「あなたは誰?」絵梨子は、自画像に話しかける。
絵梨子は、自分を写しとった絵の具が何色にも混ぜ合わさったパレットの上に、柘榴の果実のような赤色の絵の具を落とした。それから、イーゼルに立てかけた帆布に描いた自画像のくちびるの上に、自分の指先で彩りをつけた。自画像は、何かに躊躇うような眼差しで絵梨子を見つめている。絵梨子は、自分の眼差しを見つめ返した。
絵梨子は、ふっと小首を傾げた。鏡の中にいる自分の素顔より自信がなさそうで、昏い。
「あなたは、誰ですか?」
黄昏時の薄暗いシェアハウスの一室で、絵梨子は自画像に話しかけた。
絵梨子は、とりわけナルシストでもなくLGBTでもなく、自己肯定感が低いわけでもない。ただ、絵梨子には空と海がつながっていて水平線以外は何もない生まれ育った場所や、教育にあまりコストがかかっていない生い立ちへのコンプレックスがあった。
絵梨子の父親は毎日ちまちまとインスタントコーヒーのさじ加減を計るような生活を送る会社員で母親は専業主婦、3つ年齢が離れた兄は地方の国立大学を卒業して公務員をしている。絵梨子の家族は、どちらかと言えば教育や文化よりお金儲けが大切ないたってフツーな家族と言える。絵梨子は地元の高校を卒業すると、地方都市の女子短大に入学した。絵梨子は、自分が必死になっても手に入れられるかそうでないものを最初から持っている同世代の女子大生が羨ましくて仕方なかった。兄は、「あちら側に行けば良いだけだ」というのが口癖だった。
しかし、絵梨子は欲しいものを買うためにはキャバ嬢のアルバイトをするしかなかった。
それが、絵梨子の足を踏み入れた「あちら側」だった。兄は「愚民」だと自分の利益追求を隠さない絵梨子を冷笑した。学歴階級社会の中で必死で生きている兄は、為政者の権力の懐で仕えることしか頭になかった。絵梨子は、兄の言う「あちら側」の人達をまれに接客することがあった。「あちら側」の客は、気恥ずかしくなるくらい抑圧的で変わり者もいたが、兄のように生真面目で頭ひとつ動かさずに自分の周辺を見ているようでおとなしい。イニシエーションに取り憑かれた羊たちなのかもしれない。
そんな中の客の1人と恋に堕ちたこともあったが、もう4、5 年前の話だ。
シェアハウスの隣の部屋の住人が帰宅したようだ。
「絵梨子さん、ただいま。夕ご飯、いっしょに食べようよ。今日は、私が作るから」
隣の住人の花乃が、絵梨子の部屋のドア越しに言った。
「ありがとう。私も手伝うから。すぐ、行くね」
絵梨子は、絵の具で汚れた自分の指先を筆先油で拭き取ると、共有のダイニングルームに移動した。畳式に換算すると10畳ほどのダイニングルームには6人用くらいの大きなテーブルセットとカウチソファが2つ置かれてあった。北池袋駅近くの住宅街にあるデザイナーズシェアハウスのダイニングルームは、リゾートホテルのラウンジに居るようだ。
「ハナちゃん、今日のメニューは?」
「シャケの塩焼きとお芋の煮っころがし、それから豆腐のお味噌汁ね」
「オッケー」
二人で夕ご飯を食べる時は、必ず主菜、副菜、汁物の3品を用意するのが約束になっている。特に理由はないが、二人とも家族のような情緒的なつながりを何となく 求めているのかもしれなかった。
「いただきます」二人は両手を合わせて斉唱した。
しばらく、二人は化粧品とか新しくできたショップの話とか、とりとめのない話をしながら夕食をとった。絵梨子は女子大を卒業すると、ネットショッピングサイトを運営する都内の小さな会社に就職した。主にECブランドを立ち上げたりするプロジェクトで働いている。特にその会社にコネがあったわけではないし、大手ではないが都内のIT関連会社に採用されたことは絵梨子自身幸運だと思っている。給料もオフィス環境も悪くないし、縦社会の抑圧や理不尽さを感じる人間関係もなかった。なんとなく、周りがお互いを承認し、価値観に多様性がある若い会社だった。
花乃は、カウンターで仕切られたキッチンスペースで洗い物をしている。絵梨子もテーブルの上を片付けると飲み物の準備を始めた。ステンレスのポットでお湯を沸かしながら、カラオケで歌えそうな女性ヴォーカルの音楽を聴いていた。
「絵梨子さん、キスしよ」
花乃は、年下の男の子が甘えるように絵梨子を誘った。
「うん」
そう答えると、絵梨子は自分より少し背の高い花乃の唇にキスをした。甘い香料の匂いがする。絵梨子も、うっとりと目を閉じた。
絵梨子がゆっくりと唇を離すと、花乃は俯いたまま黙っていた。絵梨子と花乃がビーナスの手鏡を二つからめた関係になったのは、まだつい先日のことだった。手鏡はギリシャ神話の中で、金星の女神ビーナスが持っていたことから女性のシンボルになった。男性のシンボルは、火星の神マルスが持っていた盾と矛を象っている。
絵梨子と花乃が性的な関係を持ったきっかけは、どちらかの恋心というのでもないし、お互いにレズビアンカップルとして付き合っている認識もない。セフレみたいな関係と、あとは、
ちょうど3、4週間前の週末の夜だった。今日と同じように、ダイニングルームで二人の夕ご飯の時間が重なった。それまでもそういう時間はあったし、外で偶然会ってカフェで話すこともあった。しかし、その夜は、花乃の部屋でお酒を飲むことになった。お互いにスッピン顔で、花乃は飲むほどにいつもより女らしくなって行った。花乃が女らしくなるほど、絵梨子はいっしょにいてあまり共感を求めない性格は女性に珍しいと感じた。話し方も男性のように淡々としていて冷たい。しかし、そういう性格の女性はいるし、絵梨子にとってもその方が気が楽だった。ただ、話をする中で、まれに大きな喉仏から発するエッジのかかった低い地声は女性にはないもののように感じた。
それから2、3日経ったある日、絵梨子は共有のシャワールームで全裸の花乃を偶然見た。胸の膨らみはわずかだが、均整のとれた身体と適度に肉付きのよい脚、くびれた腰のラインは、フツーに魅力的な女性のものだった。しかし、下半身には男性器の陰茎が大きな果実のように垂れ下がっていた。
花乃は、驚愕して声の出ない絵梨子に気付いたが、何事もなかったように下着や衣服を着用すると出て行った。
花乃は、男性から女性へトランジションしたジェンダー表現者だった。女性ホルモンを投与した女性らしい体に乳房があって、下半身に男性器が垂れ下がっている。性別適合手術を受けて、女性的な恋愛や性行為にもっと近づきたいとも思うが、完全な女性になれるとは思っていない。それから、自分がトランスジェンダーや完全なLGBとも思っていない。ただ、花乃は幼い頃から、自分が男の子だと思っていなかった。振る舞いや言葉使い、着るもの食べるもの、生活のすべてに関わる性表現が女の子だった。親はもちろん誰かに教えられたわけでもない。しかし、成長するにつれて、自分の心や体、社会一般の性役割にともなう周りの人々との軋轢に苦しむようになった。そんな中で、花乃は同級生の男の子に恋をした。そして、その男の子から告白されて付き合うようになった。初めてのキスやセックスも経験した。そういうのをトランスジェンダーやLGBというのかもしれないが、そういうことに苦しむことより、なんとなく自然体でフツーの女性みたいに生きたかった。
しばらくの間、二人ともどちらかともなく会う機会がなくなった。
それから1週間後、絵梨子が仕事から帰宅すると、花乃がダイニングルームのテーブルに座っていた。絵梨子は、自分の部屋に花乃を誘った。花乃は、その夜、絵梨子の口の中や膣の中で、2度3度と何度も果てて行った。花乃のセックスは終始受け身で、絵梨子が 望めばクンニリングスを飽きるほど続けた。
絵梨子にとって花乃とのセックスは長いオーガズムに身をゆだねる、今までのセックス経験にはない時間だった。
それは、宇宙船に乗って無重力の世界に身をゆだねているようでもあった。しかし、無重力の世界からブラックホールに落ちていく、あの「イク」感覚は1度もなかった。絵梨子が経験した他の男性より大きな男根をインサートされても、オーガズムの絶頂で気を失うことはなかった。
絵梨子は、花乃のヌード画を描くことを提案した。胸の膨らみはわずかだが、均整のとれた身体と適度に肉付きのよい脚、くびれた腰のライン。下半身には男性器の陰茎が大きな果実のように垂れ下がっている。
モデルの花乃は何かに躊躇うような眼差しで絵梨子を見つめている。絵梨子は、花乃の眼差しを見つめ返した。絵梨子は、ふっと小首を傾げた。素顔より自信がなさそうで、昏い。「あなたは、誰ですか?」
黄昏時の薄暗いシェアハウスの一室で、絵梨子は花乃に話しかけた。
下半身に垂れ下がった果実の上に、赤い柘榴の唇を描いた。
Just way you were・・・そのままのあなた