ぼくは、自分の運命を信じないわけではない
朝6時に起きて、顔を洗って歯を磨く。朝食を食べる。出かける。誰にでもあるルーティンで、人間の持つアルゴリズム、行動パターン。
この行動パターンの配列を変えても、あまり気にならない?ロボットであるまいし、アルゴリズムの指示に従うこともない。それに、アルゴリズムには、いろいろな方法がある。
歯を磨いてから顔を洗っても良いし、朝食を抜いても良い。しかし、何かしっくりこない?
日常的な何でもない変化は自由意志でもなく、AIであれば腑に落ちなくても認識していくだけの情報だ。自然界の法則であれば、ただの老化だ。
朝食を食べたくないのは、二日酔いのせいだ・・・それとも、昨夜、恋人と喧嘩別れしたせいだろうか?
ある日、突然、幸運や不幸はやって来る。はかない完成品の人間は、はかないまま喜んだり悲しんだりする。
それを運命だとすると、運命に抗うことより自由でいる方がハッピーだ。いや、ぼくはそもそも自分の運命というものを信じないわけではない。
ぼくは、運命に対して、たまに弁証法的な対話を試みる。
はかない完成品の人間であるぼくは、つまり完璧ではないぼくは運命に翻弄されるアンチ(テーゼ)になる。
人生にとって幸せであることはきわめて大切だが、幸せという目的のために、犠牲にしたり失うものもある。という、幸せというテーゼに対するアンチテーゼ・・・昨夜の恋人との喧嘩も、そのことが原因だった。
「もっといい人がいる」それが、どちらともなく言い出した別れの言葉だった。
運命的な出会いから、果たして別れることは運命だったのか?それとも、ふたりの対立は、アウフヘーベンを通じてさらに高次元な関係に発展するのか?持続可能な発展、つまりシンテーゼ、漢字表記すると「合」へと導くことができるのか?
ぼくは、ふと彼女と出会った頃を思い出した。彼女とつきあう目標を達成するためにさまざまな手順を考えて、無意識に頭の中でチャート化していた。
あれから半年、運命のアルゴリズムは、また動きだすだろうか?